消えゆく九十九里の砂浜

作成 アパッチ


昭和30年台までの九十九里浜・・そこには広い熱い砂浜が広がっていた。
水辺まで、何度か足裏を日陰で冷やさなければたどりつけなかった
海の人たちは一生懸命に生きていた。生活は苦しかったが、心は豊かだった。

海には豊かな幸があり、魚介類は驚くほどよく採れた。
荒波、女衆は漁船を砂浜から海に出す「オッペシ」と言う作業のために半裸で過酷な仕事に耐えた。
海の男衆は素裸で漁に出ていった。
働く大人たちを見て浜の子供達の目は輝いた。
大人も老人もその目はきらきら光っていた。

・・・それから半世紀、50年の時が流れた。
海も魚介類も砂浜も生活も大きく変貌していった九十九里浜。
そこに一体何があったのでしょうか

 

 

 

1)九十九里浜の成り立ち  


九十九里浜は千葉県北東部の太平洋沿岸に沿って続く弧を描いた砂浜海岸です。
この雄大、素朴な自然のおりなす砂浜海岸は、古くから多くの文豪や歌人を輩出し、また愛されて、数々の作品の舞台ともなっていました。
その規模は北東方向屏風岬から南西方向太東岬まで約66キロに渡って延々と続き、日本では遠州灘に次ぐ規模を誇ります。


その九十九里浜の両端にそびえるこの二つの岬は50メートルの高さの台地を持ち、その台地はとても柔かくて、とても脆いのが特徴です。

そのため海食されやすく、太平洋の荒波にもまれて以前は年間1メートルの速度で削られて行っていました。

その侵食され流出した土砂は漂砂となり沿岸流に乗って移動して、入り江に砂洲状に堆積して長い時間をかけて今のような帯状の海岸線が出来上がったものです。

長い年月に堆積した土砂は奥行き10キロ長さ66キロに及び、私たちの住む九十九里平野を作り出しました。
この砂浜に今異変が起きていて、砂浜が急速に減少しているのです。
その原因や対策などを探ることとします。  


(2)九十九里浜の潮流

九十九里浜を衛星写真で見ると綺麗な弧を描いているのが分かります。
広い太平洋からやってくる荒波は真ん中片貝海岸付近では正面から来ますが、弧を描いた両端の 屏風岬と太東岬では斜め横より波が来る形となります。
この波の押し寄せる微妙な角度の違いから、沖から押し寄せる荒波は海流を作りだして、両方の岬からの海流が九十九里浜の中間点片貝付近に向かって緩やかな湾岸流を発生させるのです。
両岬から押し寄せる湾岸流は今度は九十九里浜の中心部である片貝付近でぶつかり合って
離岸流となり沖合いに流れて行きます。
その離岸流は今度は太平洋から来る荒波に再び戻される形となって対流となって二つの大きな循環流が発生します。

 

 

(3)九十九里浜で何が起こっているか

その九十九里浜で今急速に砂浜が減少しているのです。
その最大の理由は、漂着する砂の量が急激に減少しているからです。
前述したように九十九里浜の砂浜は、北東端にある屏風ヶ浦や、南西端の太東崎が太平洋の荒波で削られて流出した土砂が湾岸流に流されて漂着して堆積したものです。
屏風ヶ浦や太東崎は、侵食が激しく、崖の上にある住宅や農地など国土を守るために、戦後になって、護岸や人工構造物により侵食対策を施しました。
その結果、海食は食い止められましたが、九十九里浜に供給される砂泥がなくなり、砂の供給バランスが狂ってしまったのです。

当時の九十九里浜の住民にとって、砂浜の減少は決して悪いことではなかったのです。
戦後、漁船の動力化や大型化により、広大な砂浜は九十九里浜の漁民には邪魔でさえありました。
漁港がないために、砂浜への船の揚げ降ろしは、大変過酷な労働であり、住民にとって漁港の建設は、悲願でした。
そこで建設したのが片貝漁港や飯岡漁港です。

ところが、この漁港の建設も砂浜の減少にj拍車をかけることとなったのです。
九十九里沿岸に漁港につくられた防波堤により、その外側に少なくはなったとはいえ流砂が溜まります。
そこで防波堤は更に海上に延長されて行きます。
この巨大な防波堤によって更に砂の流路が遮断され、九十九里浜を形成する砂は流れなくなってしまうのです。
また、防波堤の外の砂が溜まりすぎると風によって防波堤を乗り越え、港内へと進入する。
そして過剰な砂の堆積によって港の水深が浅くなり、漁船が座礁するのを防ぐため、砂を取り除かなければならなくなりました。
まさに九十九里浜の住人たちは、砂との戦いの歴史でもあります。


(4)暴風林の建設と砂浜

                       
九十九里の砂浜の減少の原因としてもう一つ、暴風林の建設が上げられます。
沖から吹き付ける強風は砂嵐となって、容赦なく家々や田畑を襲います。
そこで人の生活区域に近い砂浜に、砂の飛沫を防ぐため松を植えて、防風林を作りました。
陸地側からの砂浜の減少となります。
住宅地や農地への砂の飛散は収まりましたが、その砂嵐は松林の手前で止まって砂丘を作り始めたのです。
この砂丘には以前とは植生の異なる浜昼顔が急速に広がってゆきました。
暴風林の建設、これだけでも砂浜は陸地側からも狭めて行ったのに、1980年代からは、少なくなった砂をかき集めてブルドーザーを駆使して堤防などを作り始めて、少ない砂はますます少なくなっていったのです。
海岸線の減少によって、押し寄せる荒波は今度は防風林の存在まで危うくしかねなくなってきました。
そこで今度は砂浜を守るため、と言うより国土を守るために海の中にテトラポットを埋めたり、コンクリートによる防波堤を作ってしまって、あちらこちらに無様な海岸線が出来上がってしまったのです。
上の写真は横芝光町屋形付近の防風林の衛星写真です。



(5)海の中では

砂浜の減少は海の中にも大きな変化を及ぼして行きました。
流砂の充分補給のあった時代には、海の中には海岸線に平行していくつもの海の中の川があったのです。
昔は沖に出るのにはこの川をいくつも乗り越えて沖に出たもので、干潮時にはこれが地上に現れて、子供のための自然に出来たプールのようで、太陽熱に暖められた海水はとても暖かくてそこには小魚が沢山いて、手掴みがさえ出来たものでした。
流砂の減少はこの海の中の川を失わせてしまい、まるでプールの底のように海底は平らになってしまったのです。
そのために魚たちは住家を失って急速に魚介類の減少を招いてしまったのです。


(6)飯岡漁港では

上記の写真は飯岡漁港の写真です。
この右半分は日本のドーバーと言われる屏風が浦です。
人家の見える部分は飯岡市内でここから左へと九十九里浜が広がるのですが、屏風ヶ浦の海食を防ぐために強固な堤防やテトラポットで守られています。
更に漁港から伸びる防波堤は波の動きを変えてしまって、湾岸流が発生しにくくなっているのが波の動きから分かります。


(7)解決策はあるか

それでは消え行く九十九里の砂浜を守るにはどうすればいいのか。
ここまでも破壊された九十九里の砂浜を復活維持させると言う技術的な問題解決だけでも人間の知恵と莫大な資金が必要であるにもかかわらず、更にやっかいなのは海岸線の管理が各官庁にバラバラに管理されていることです。
海の中は「水産庁」、海岸線は「国土交通省」、暴風林は「千葉県北部林業事務所」管轄です。
これらの管理体制のため、法律も森林法、海岸法、港湾法、漁港漁場法、河川法、などなどの法律でがんじがらめに拘束されてしまっているのです。
個々の法律はそのある分野においては優れた法律かも知れませんが、「九十九里浜はこうあるべし」と言う絶対前提条件が前提起されていないことに問題があるのです。
今のままの法体系で進めばお互いの利害関係が前に出てしまい、総論賛成各論反対の繰り返しで「九十九里浜をより良い状態で子孫代々までいかにして残すか」と言う根本的問題にたどりつけないでしょう。
また別の所にも問題があります。地元住民にとって今の暮らしには砂浜は必要ではない、と言う意見が以外に多いのです。
漁業や魚で生計を立てる人は激減しているし、漁業関係者であっては砂浜は邪魔でさえある、と言う意見が多くを占めると言うことです。
こういう難しい問題を抱えて、今九十九里浜はテトラポットや防波堤に囲まれて苦悩しているのです。